解説
太閤検地と刀狩
豊臣秀吉は太閤検地を実施し、全国の土地の面積や収穫量(石高)を統一基準の京ますで調査しました。これにより百姓は土地を耕作する権利を保障される一方、年貢を納める義務を負いました。また刀狩を行い、百姓から刀や槍などの武器を取り上げて一揆を防ぎました。太閤検地と刀狩により、武士と農民の身分が明確に区別される兵農分離が進みました。
- 太閤検地:土地の面積と石高を全国で調査
- 刀狩:百姓から武器を没収し一揆を防止
- 兵農分離:武士と農民の身分を明確に区別
朝鮮出兵
秀吉は明(中国)の征服を目指し、1592年に文禄の役、1597年に慶長の役と二度にわたり朝鮮へ大軍を派遣しました。しかし朝鮮の水軍を率いる李舜臣が亀甲船(甲板を鉄板で覆った軍船)を使って日本の補給路を断ち、民衆の抵抗も激しく、日本軍は苦戦しました。1598年に秀吉が亡くなると日本軍は撤退しました。この戦いの際、日本に連行された朝鮮の陶工によって有田焼などの磁器が伝えられました。
- 文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)
- 李舜臣が亀甲船で日本の補給路を断つ
- 朝鮮陶工により有田焼などが伝わった