解説
元の日本への要求と文永の役
フビライ・ハンは日本に使者を送り、服属(朝貢)を求めましたが、鎌倉幕府の執権・北条時宗はこれを退けました。1274年、元と高麗の連合軍が対馬・壱岐を攻め、九州北部に上陸しました(文永の役)。元軍は集団戦法と「てつはう」(火薬を使った武器)で攻め、一騎打ちの戦い方だった日本の武士は苦戦しました。
- フビライ・ハンの要求を北条時宗が拒否
- 文永の役(1274年):対馬・壱岐を攻め九州北部に上陸
- 集団戦法と「てつはう」:元軍の戦い方
- 日本の武士は一騎打ちの戦い方で苦戦
弘安の役と元寇の結末
北条時宗は博多湾に石の防壁(石塁)を築いて2度目の襲来に備えました。1281年の弘安の役では、石の防壁が元軍の上陸を防ぎ、さらに暴風雨が元軍に大打撃を与えました。こうして二度にわたる元寇は日本の防衛に成功しました。蒙古襲来絵詞には、恩賞を求めて幕府に訴える御家人の姿が描かれています。
- 石の防壁(石塁):博多湾に築かれた防衛施設
- 弘安の役(1281年):暴風雨で元軍が大打撃
- 蒙古襲来絵詞:元寇の様子を描いた絵巻
御家人の困窮と幕府の衰退
元寇は防衛戦だったため、新しい領地を獲得できず、御家人に十分な恩賞を与えられませんでした。また分割相続のくり返しで御家人の領地は次第に減少し、生活が苦しくなりました。幕府は1297年に永仁の徳政令を出して御家人の借金を帳消しにしましたが、効果は一時的でした。かえって金貸しが御家人に金を貸さなくなり、経済が混乱しました。
- 恩賞不足:防衛戦のため新領地がなく御家人に報いられない
- 分割相続:世代を経るごとに領地が減少
- 永仁の徳政令(1297年):借金帳消し、効果は一時的
鎌倉幕府の滅亡と建武の新政
幕府への不満が高まる中、後醍醐天皇は倒幕を企てました。足利尊氏が京都の六波羅探題を攻め落とし、新田義貞が鎌倉を攻め、1333年に鎌倉幕府は滅亡しました。その後、後醍醐天皇は天皇中心の政治「建武の新政」を始めましたが、公家を優遇して武士の功績を評価しなかったため、武士の不満が高まりました。
- 後醍醐天皇:倒幕を企てた天皇
- 足利尊氏:六波羅探題を攻め落とす
- 新田義貞:鎌倉を攻めて幕府を滅ぼす
- 1333年:鎌倉幕府滅亡
- 建武の新政:公家中心で武士の不満を招く